■奈良平安時代のお墓と墓石
7世紀ごろになると、律令国家が出現し、法律がまとめられ、都がつくられました。そして、現在の行政区画のような、国・郡(評)・里を設定し、そこに地方役所が置かれました。当時の遺跡の発掘から、整然と建ち並ぶ建物の跡や当時の人々が働く姿が容易に想像できます。
この頃仏教が伝来し、公式な宗教となるに従い、古墳は衰退していきました。仏教の教えに従い寺院を建て火葬墓が取り入れられるようにました。また、大化の改新によって古墳築造の墳墓は禁止されたのです。
8世紀以降には奈良の都、平城京の都市内部に墓地造営は法律で禁止されて、天皇と貴族の墓も首都郊外に造営されていた。貴族以外の人々の葬送も定められた用地、5ヶ所が定められたようです。
平安時代になり都が京になってからもその方針は貫かれました。平安時代の庶民の葬送には京都の西北のあだし野、舟岡、東南の鳥部山、鳥部野一帯であったと言われています。
そうなるとそれまでの大きな墓は見られなくなり、小さな墓がつくられるようになります。仏教のひろがりとともに火葬も一般的になり、その場合お墓には遺骨を壺などに納めるようになりました。
墓塔の発生
平安時代中期になってようやく現代につながる墓塔が発生しました。仏教は大衆化し、西方浄土思想という庶民・大衆の救済をめざした日本の浄土信仰が芽生えました。
いわゆる高野聖たちは仏教普及に尽くし、行脚を通して、風葬や土葬だけでは死者は浄土に生まれ変ることできないので、遺体の一部は弘法大師の開かれた高野山に納めるように説得しました。以来、高野山には多くのお墓が造られるようになり、これが、庶民のお墓の原型ではないでしょうか。
経塚と塔頭の発生
12世紀になると「経塚」が発生し、仏教教典を写経して金属製の筒に入れて土に埋めました。副葬品として、鏡をはじめ中国製の焼き物(合子)や鉄製の小刀、銅銭などがいっしょに納められることもありました。同時にお寺の高僧を葬った後に塔を建て、そこに庵を設けた「塔頭」(たっちゅう)が発生しました。
この頃から、浄土系仏教などが、仏教が葬儀を執り行うようになった。しかし、東大寺、薬師寺など南都の仏教寺院は、これを拒み現在でも葬儀は行われません。現在でもこれらの寺で住職など僧侶が無くなった時には、浄土系仏教のお寺の僧が葬儀を行うことになっているようです。
<五輪塔の発生>
平安時代の墓石の特徴は、五輪塔です。これは弘法大師空海の発明で日本独特の様式だと言われます。と言われる。五輪塔は、下から四角形、円形、三角形、半円形、如意宝珠形の五つの部分からなります。平安時代中期以降、これも高野聖が普及させたとされています。ただ、圧倒的な普及は、次の時代、鎌倉の世を待たねばなりませんでした。
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